BUNGAKU@モダン日本_archives(旧・Yahoo!ブログ)

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村上春樹的「やれやれ」の源流を探る―庄司薫,夏目漱石,横光利一,新美南吉

村上春樹の「やれやれ」

 村上春樹の小説に頻繁に登場するセリフに「やれやれ」というのがあります。

 たとえばこんな風に使われています。
 それからボールをバンパーに当ててマグネットの調子を点検し、全てのレーンを通過させ、全てのターゲットを落とした。ドロップ・ターゲット、キックアウト・ホール、ロート・ターゲット……、最後にボーナス・ライトを点けてしまうとやれやれといった顔付きでボールをアウト・レーンに落としてゲームを終えた。そしてジェイに向かって何も問題はない、という具合に肯いて出ていった。
 (「1973年のピンボール」p.109)

「やれやれ」と僕は言った。やれやれという言葉はだんだん僕の口ぐせになりつつある。
「これで一ヵ月の三分の一が終り、しかも我々はどこにも辿りついていない」
 (「羊をめぐる冒険・下」p.36)
 村上春樹の小説にたくさん使われているような気がする「やれやれ」ですが,デビュー作の風の歌を聴けにはどうやら用例がありません。

 『1973年のピンボールでも,私がざっと調べた限りでは上記の1例のみのようです。

 羊をめぐる冒険になると,にわかに用例が増えます。引用に「だんだん僕の口ぐせに…」とある通りです。同時期に書かれているカンガルー日和所収の短編にもけっこう使われています。

 自分と,自分をとりまく状況そのものに対する諦観というか,ヒューモアというか,拒絶の身ぶりを示しつつもとりあえず容認するという,作中人物の現実に対する感受のかたちが,「やれやれ」という言葉には秘められている気がします。
 
 この「やれやれ」については,「『まさか』と『やれやれ』」という加藤典洋さんの卓抜な評論があります。(1990年講談社刊『日本風景論』所収)

 その中で加藤典洋さんは,「ぼくの限られた読書歴からいって、こうした特殊な『やれやれ』が日本語の小説あるいはエッセイに現れるのは、村上春樹の小説をもって嚆矢とする」と断言しています。

 「こうした特殊な『やれやれ』」という限定を加えてはいますが,「やれやれ」は村上春樹の発明であるというのが,加藤典洋さんの主張です。

 しかし村上春樹よりも早く,こんな用例があることを加藤典洋さんは知っていたでしょうか。

「どうもいけないようだなあ。」
「うん?」
「やれやれ。」と、彼はそのどう見ても高倉健の真似をしたとしか思いようのない短く刈った頭をなでながら下を向いた。「もうおしまいだ何もかも、ってのはアンデルセンだったっけ?」
「え?」
「おれは孤独にもなれないってことを発見したんだよ。」
「……?」 
 (「白鳥の歌なんか聞こえない」p.27)
 加藤典洋さんの分析にはちょっとわかりにくいところがあるので,庄司薫の「やれやれ」が「こうした特殊な『やれやれ』」に入るかどうか,にわかに判断できないところがあります。

 でも,村上春樹への影響が云々されることもある庄司薫の小説の中で,「やれやれ」というセリフがこんな形で使われているというのは,なかなか興味深い事実ではないでしょうか。


近代文学のなかの「やれやれ」

 村上春樹よりも前に使われていた「やれやれ」を探し求めて,インターネット図書館「青空文庫」を訪れてみました。

 すると,件数としては198件。意外とたくさんの用例が見つかりました。

 ただし,「やれやれ頂上へ着いたわい、おお、ここにお堂がござる」 (中里介山大菩薩峠』)のようなものが多く,村上春樹の「やれやれ」に近いテイストのものは意外と少ないようです。

 ちょっと近いのではないかなと思ったのは,吾輩は猫である迷亭が発する次の「やれやれ」です。

「…もし絞罪に処せられる罪人が、万一縄の具合で死に切れぬ時は再度(ふたたび)同様の刑罰を受くべきものだとしてありますが(中略)千七百八十六年に有名なフツ・ゼラルドと云う悪漢を絞めた事がありました。ところが妙なはずみで一度目には台から飛び降りるときに縄が切れてしまったのです。またやり直すと今度は縄が長過ぎて足が地面へ着いたのでやはり死ねなかったのです。とうとう三返目に見物人が手伝って往生(おうじょう)さしたと云う話しです」「やれやれ」と迷亭はこんなところへくると急に元気が出る。「本当に死に損(ぞこな)いだな」と主人まで浮かれ出す。

 私が卒業論文を書いた横光利一にも,次のような「やれやれ」がありました。
 梶はヨーロッパが左右両翼に分れて喧喧囂囂(けんけんごうごう)としている中を無雑作にシベリアを突っ走り、日本へ帰るとすぐ東北地方へ引き込んだ。彼は妻の父と母とに「ただ今帰りました」とお辞儀をしてから早速仏壇の前へいって黙礼した。
「やれやれ」
 梶は浴衣(ゆかた)に着換えてから奥の十二畳の畳の上にひっくり返って庭を見た。日本人が血眼(ちまなこ)になって騒いで来たヨーロッパの文化があれだったのかと思うと、それまで妙に卑屈になっていた自分が優しく哀れに曇って見えて来るのだった。
 (横光利一「厨房日記」より)
 引用部分の「やれやれ」は,ヨーロッパから戻ってきた主人公の梶が寝床の上に仰向けになって「あーあ、もとの黙阿弥か」とつぶやく結びの場面と重なっているのですが,「大菩薩峠」のような用例よりは,村上春樹の「やれやれ」にだいぶ近い感じがします。


近代文学史上特筆すべき「やれやれ」

 最後は,新美南吉の「がちょうのたんじょうび」です。

 「がちょう」の誕生日に動物たちがみな集まります。あとは「いたち」が来れば全員そろうのですが,「いたち」には「よくないくせ」がありました。

 「いたち」は,「おおきな はげしい おなら」をするのです。

 でも「いたち」だけ呼ばないときっと怒るに違いないという話になり,「うさぎ」が迎えに行き,「あの、すみませんが、きょうだけは おならを しないで ください」と念を押して連れてきます。
 「ええ、けっして しません」と約束した「いたち」は,誕生会のあいだ「おなら」をしないで行儀良く食事をしました。
 
 ところが,「おなら」を我慢しすぎたのがいけなかったようで,「いたち」は突然ひっくり返って気絶してしまいます。

 さあ、たいへん。さっそく、もるもっとの おいしゃが、いたちの ぽんぽこに ふくれた おなかを しんさつしました。
「みなさん」と もるもっとは、しんぱいそうに して いる みんなの かおを みまわして いいました。「これは、いたちさんが、おならを したいのを あまり がまんして いたので こんな ことに なったのです。これを なおすには、いたちさんに おもいきり おならを させるより しかたは ありません」
 やれやれ。みんなの ものは ためいきを して かおを みあわせました。そして やっぱり いたちは よぶんじゃ なかったと おもいました。
 (新美南吉「がちょうのたんじょうび」より)

 この「やれやれ」は,かなりイケテルんじゃないでしょうか。

 村上春樹の「やれやれ」を超えているというか…。

 近代文学における“イケテル「やれやれ」ベスト10”を選出するとしたら,「がちょうのたんじょうび」は当確でしょうね。