絲山秋子「ベル・エポック」を読み返す
Yahoo!ブログに書き連ねた駄文をまとめた論文を電子ブックとして公開しましたが,その後もときおり読み返しています。
そして性懲りもなくディテールをほじくり返しては一読三歎,五読で十五歎・・・
そのいったん。
自分の大学時代(昭和の終わり)の感覚で,「方言をしゃべるみちかちゃん/標準語をしゃべるみちかちゃん」という対比を「素顔/仮面」というような対比に重ねて理解しようとしていました。
地方から上京してきた友人の一人が,東京のことばに対するコンプレックスのようなものについて語ったり,東京のことばで語り続けなければならないことに対するしんどさについてこぼしたりしていたのを記憶しています。
そういうものが崩れたのは,全国ネットの放送を聞いて育った世代が大人になり,世代交代が進み,方言がマイルド化すると同時にテレビ的な全国共通の言語運用が広く浸透したためではないかと考えていました。
1990年代の終わりにアラサーにさしかかったと思われるみちかちゃんの世代にも,そのような理解を適用することはできそうです。
だとすれば,みちかちゃんにとっては,三重の方言を使う自分も,東京の言葉を使う自分も,どちらも「ほんとう」なんでしょうね。
家族と過ごす時,小学校時代の友人たちと過ごす時,大学の同級生と過ごす時,バイト先で仲間と過ごす時,ツイ廃としてネットを跋扈するときなど,そのつどキャラを使い分けるような生き方を身に着けている今どきの若者にとっては,「キャラ化する/される」みたいなことは当たり前です。
いくつものキャラを使い分けて生きている人からすれば,「三重の方言を使う自分」と「東京の言葉を使う自分」の使い分けぐらいは造作もないことです。
そしてポイントはむしろ,「私」(典ちゃん)の側からの見え方かもしれません。
東京で出会って東京のことばで仲良くなったみちかちゃん。
彼女の発話する「できやんやんかあ」という方言を聞いた時,自分の知らないみちかちゃんの地金の部分を初めて見たような気持ちになったのではないか,という読みは成立しそうな気がします。
方言の世界の「もうひとりのみちかちゃん」を意識した時に「私」が感じる距離感。
「新しい暮らしの最初の段ボール箱」によって引き起こされる切ない別離への序章として散りばめられたさりげない布石のひとつとしての,「できやんやんかあ」です。
つづく・・・かも