BUNGAKU@モダン日本_archives(旧・Yahoo!ブログ)

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絲山秋子の「ベル・エポック」(5)―“虚構”を読むということ

ネタバレ注意です!


 (※いきなりここへ来てしまった方は,できればこのシリーズ最初の記事へ。)

「なるほど!」コメントに感謝

 皆さんのコメントのおかげで,このシリーズも私の意図をはるかに越えた場所にたどり着いています。

 自分の中で十分に消化しきれない部分もあるのですが,前の記事のさわりを掲げて,「私」とみちかちゃんとの“女の友情”のあり方とその行方,さらにはそれを「ベル・エポック」という小説がどのように描きだしているのかということを確かめてみます。
 …新しい暮らしの場で待っている、孤独から解放してくれるであろう同僚なのかも知れないし彼氏なのかも知れない、環境そのもの。・・・なんでしょうね。それが、「典ちゃん」との電話番号を変えてしまう契機なんだろうなぁ…(テハヌーさん)

 「みちかちゃんは婚約者を失うという、とんでもなく辛い目に合ったのだから、思い出のある町とそこでの絆はすっぱり断ち切って、新しい暮らしをするのだ」
 …でも、引越しの手伝いをしながら、心のどこかで「私」は気づいていしまっている気がします。
 引っ越し作業中に告げられたみちかちゃんのいくつかの打ち明け話に「今まで自分はみちかちゃんのことを何も知らなかった(知らされなかった)のではあるまいか」と。(リリカさん)

 …みちかちゃんが新しい生活へと向かうのだとして、かつ典ちゃんには実家に帰るのだとしたら…。箱に封をしないという行為が中途半端な露出趣味のようなイメージを生みます。隠してはいるが、完全に隠しきることをためらう心の現れのような…。淡い色をした罪悪感のような。…(ごくろう君)
 引用したコメントの後にも,「中途半端に『開けっ放しに残された最後の段ボール』は『私』目線で見ると、みちかちゃんの『最後に中途半端に開かれたこころ』と同期して見えます」というリリカさんの卓見や,ベル・エポックババロアを丁寧に入れたアール・グレイで食べるという儀式が「みちかちゃんの持っている、最後の『侠気』」だと喝破したテハヌーさんの洞察,「伝える側もそれとなく伝えるし、伝わった側もあえて確かめもしない。触れずにおくべきものを触れないままで別れるなんてことは、この小説に限らず我々の日常の中にも沢山ある」というごくろう君の見識が示されています。

 いずれも興味深いものですし,いっそのこと,シリーズの最初からすべてのコメントを再掲したいぐらいですが,文字数制限を超過してしまうので諦めます。

 さて,改めて考えてみたいのは,みちかちゃんの「新しい暮らし」についてであり,2人のそれぞれの“訣別”のありようについてです。

 とりあえず言えることは,婚約者を亡くして半年で,しかも誠さんと結婚するはずだった6月が訪れるよりも前に“新しい男”との新生活を始めるというのは,“読者の期待の地平”からは逸脱しているということでしょう。

 それでも,仕事を辞めて転居することを決意したという事実は,みちかちゃんが「新しい暮らし」へと足を踏み出すことによって「誠さんと結婚するはずだった自分」と訣別しようとしていることを読者である私たちに伝えてきます。

 ここまではまあ,最大公約数的な読みであると言えそうです。

事実と虚構のちがい

 ここで少し遠回りをして,現実と虚構との違いについて確認してみます。

 みちかちゃんと「私」が実在の人物だとすれば,私たちが知り得た事実の背後に,私たちのまったく知らない事実が隠されている可能性が常につきまとっています。

 たとえば,みちかちゃんとアール・グレイでババロアを食べたと「私」が言っているのは記憶違いで,実はオレンジ・ペコでパンナコッタを食べたのかもしれません。

 あるいは,トーラス・ワゴンで走り去ったみちかちゃんが,そのまま青木ヶ原へ行って自殺してしまうということがあるかもしれません。

 みちかちゃんと別れた直後に,「私」が脳梗塞で倒れ,半身不随になってしまうということだって起こり得ます。

 それが“現実”というものです。

 でも,“虚構”として書かれている小説においてそのような可能性を想起することは,少なくとも「小説を書く→小説を読む」という営みが暗黙の了解としている約束事を逸脱しているのではないでしょうか。

 もちろん,ドラえもんのしずかちゃんが結婚詐欺と保険金殺人を繰り返す犯罪者になったという想定でスピンオフの漫画を書くというような楽しみに通じるものとして,妄想の領域に入ることをいとわずに,想像を自由に働かせて小説を楽しむという読者の権利を認めるにやぶさかではありません。

 しかしながら,多くの人が享受し続けているドラえもんの世界において,しずかちゃんが結婚詐欺と保険金殺人を繰り返す犯罪者であるということは許されません。

 “許されません”と書きましたが,言わばそれが虚構世界の“約束事”です。

 同様に,「ベル・エポック」という小説において,みちかちゃんと別れた直後の「私」が脳梗塞で倒れ,半身不随になってしまうという読みをすることは,暗黙の了解に反する“ルール違反”です。

 もしもそういう出来事が起こるのだとすれば,間接的な形でも,微妙なほのめかしでもかまわないのですが,「私」の身体に何らかの異常が起こるということを示唆する描写がなければいけません。

 過去を想起しながら出来事を言語的に再構成している「私」が半身不随であることの痕跡を,小説言語の形式の中に何らかの形で示さなければなりません。

 そういうものがない限り,「私」が脳梗塞で倒れるという読みを展開することは,「しずかちゃんが…云々」というのと同様の「妄想的な読みの楽しみ」になってしまいます。

 これらのことは,大まかに言えば,写真とイラストとの違い,実写の動画とCGによるアニメとの違いなどにも当てはまるものです。

書き換えられた描写

 ここで「私」とみちかちゃんとの“女の友情”のあり方とその行方,さらにはそれを「ベル・エポック」という小説がどのように描きだしているのかということを考えるために,今までとは少し違った角度から材料を提示してみます。

 絲山秋子の「ベル・エポック」は,2004年7月号の『野性時代』に発表されたものですが,2005年10月に刊行された単行本収録の際に若干の加筆修正が行われています。

 そしてその加筆修正箇所というのが,このシリーズで大きな論点になってきたトイレットペーパー問題に深く関わる部分なのです。

 以下に示してみます。
【初出】
「カーテンはどうする?」
「一応持っていく。こっちの段ボールに入れて」
掃除機でざっと埃を吸って、ベランダでぱたぱたやってからたたんで、みちかちゃんが新しく組み立てた段ボールに入れた。

【単行本】
「カーテンはどうする?」
「あ。こっちの段ボールに入れて」
掃除機でざっと埃を吸って、ベランダでぱたぱたやってからたたんで、みちかちゃんが新しく組み立てた段ボールに入れた。

【初出】
 まだガムテープで封をしていない段ボールを何気なく覗くとそれはカーテンの箱だった。さっき仕舞った食器の他に、タオルと、トイレットペーパーが一巻入っていた。
 はっとして箱のフタを閉じた。
 みちかちゃんは実家には帰らない。

【単行本】
 まだガムテープで封をしていない段ボールを何気なく覗くとそれはカーテンの箱だった。さっき仕舞った食器の他に、タオルと、新しい雑巾とトイレットペーパーが一巻入っていた。
 はっとして箱のフタを閉じた。
 みちかちゃんは実家には帰らない。
 上記の部分以外の修正は,「会社のある代々木駅のベンチに…」「会社帰りに代々木駅のベンチに…」としたり,「同僚の保母さんの紹介で…」「同僚の紹介で…」としたり,名鉄の車掌」近鉄の車掌」としたりなどの書き換えが目立つ程度です。

 全体的に,ほとんど書き換えはなされていません。

 それだけに,段ボールがらみの書き換えは目立つわけで,そこに絲山秋子という書き手の意識を探る手がかりが見て取れる気がして興味深いわけです。