絲山秋子の「ベル・エポック」(8)―「小さな恋のメロディ」が流れていた理由
※いきなりここへ来てしまった方は,できればこのシリーズ最初の記事へどうぞ!
行くあてはないけど…
そろそろ終わってもいい感じのこのシリーズですが,せっかくなので触れておきたいのは,BLANKEY JET CITYの「小さな恋のメロディ」についてです。
7枚目のアルバム『ロメオの心臓』(1998年6月リリース)の13曲目に収録されています。
歌詞をご存じの方ならわかる通り,「こんなやるせない曲を聴きながら、みちかちゃんは私の知らないどこかへ行こうとしている」という感慨にひたるのも当然のことです。
曲をご存じない方のために,サビの部分でリフレインされている次のようなフレーズを示しておきましょう。
行くあてはないけど ここにはいたくない
幸せになるのさ 誰も知らない 知らないやり方で
ただ問題は,どうして「私」がこの曲を聴かされることになったのかということです。
明確な答えを導き出すことはできないかもしれませんが,かなり思わせぶりな書き方になっています。
エンジンはかけっぱなしで…
念のために確認しておけば,次に引用するような状況で「私」は「小さな恋のメロディ」を聴かされています。
みちかちゃんが管理人にカギを返しに行っている間に、私はマンションの前に停まっているワゴン車の大きな荷室に段ボールを積んだ。それはいかにも頼りなげな裏切りだった。エンジンはかけっぱなしで、カーステレオからは、昔流行ったブランキー・ジェット・シティの『小さな恋のメロディ』が流れていた。こんなやるせない曲を聴きながら、みちかちゃんは私の知らないどこかへ行こうとしている。
これはいったい偶然なのでしょうか?
ラジオから流れているのだとすれば,“偶然のいたずら”であるということになります。
でも,もしもCDから流れているのだとすれば,出発するためにエンジンをかけたトーラス・ワゴンに流す音楽として,みちかちゃんがあえて『ロメオの心臓』を選んだことになります。
しかも,もしかすると「小さな恋のメロディ」をリピート演奏させていた可能性すら考えなくてはなりません。
なにしろCDの13曲目に入っているわけですから。
もちろんシングルCDをかけていたのだとしても,みちかちゃんの作為は明らかです。
みちかちゃんは,「行くあてはないけど ここには居たくない」というメッセージを「典ちゃん」に確実に聞かせるために,わざわざ車のエンジンをかけっぱなしにしていた可能性があることになります。
ところが,そういうみちかちゃんの作為をあるいは感じ取ったのか,「典ちゃん」は流れている曲を無視して「これ、なんて車?」という間の抜けた質問をしています。
「これ、なんて曲?」とは聞かずに,「これ、なんて車?」と聞いているわけで,流れている曲にはまったく反応していないのです。
曲に気がついていないはずがないのですから,「なんだか知らないとこに行っちゃうみたいだね(笑)」ぐらいの反応があってしかるべきなのに,2人とも「小さな恋のメロディ」を表面上はスルーしているわけです。
まったく“怖い小説”だと,つくづく感じます。
いや,みちかちゃんの作為ではなく,たぶん“偶然のいたずら”だとは思うんですけど…。
(つづく)