BUNGAKU@モダン日本_archives(旧・Yahoo!ブログ)

2005年2月18日〜2019年12月15日まで存在したYahoo!ブログのデータを移行しました。

絲山秋子の「ベル・エポック」(3)―トイレットペーパー問題


ネタバレ注意です!


 (※いきなりここへ来てしまった方は,よろしければこのシリーズ最初の記事へ。)

どんでん返しの結末?

 「ベル・エポック」を最初に読んだときにたいがいの読者が驚かされるのは,結末近くの次の場面です。
 まだガムテープで封をしていない段ボールを何気なく覗くとそれはカーテンの箱だった。さっき仕舞った食器の他に、タオルと、新しい雑巾と、トイレットペーパーが一巻入っていた。
 はっとして箱のフタを閉じた。
 みちかちゃんは実家には帰らない。
 なぜ「私」は「はっとしてフタを閉じた」のでしょうか。

 なぜ「みちかちゃんは実家には帰らない」とわかったのでしょうか。

 6ヶ月前に婚約者を亡くし,そのまま保育士を続けていたみちかちゃんは,「三月のきりのいいところで辞めて、田舎に帰る」はずでした。

 だからこそ「私」は,引っ越しの荷造りと部屋の掃除を手伝い,作業が終わったときにベル・エポックBelle Époque フランス語で「古き良き時代」という意味)という名前のお菓子屋さんで買ってきたババロアを食べ,お茶を飲みながら別れを惜しんで語り合うという流れになっているわけです。

 ところが,みちかちゃんは「実家には帰らない」というのです。

 「友だち以上,親友未満。」のみちかちゃんの嘘がこの場面で明らかになっています。

 ただ,少し分かりにくいのは,なぜ段ボール箱の中身を見ただけで「私」が嘘だと気づいたのかということです。

段ボール箱の中のトイレットペーパー

 わかってしまえば簡単なことですが,たとえばトイレットペーパーです。

 たった一巻のトイレットペーパーを,引っ越し業者が段ボール箱に入れて運び去ったさまざまな家財道具とは別に,わざわざ自分の車に積んで運ばなければならないのはなぜでしょうか。

 実家のトイレには,当然のことながらトイレットペーパーがあるはずです。

 ですから,実家に帰るのであれば,たった一巻のトイレットペーパーなど不要です。

 むしろこのあと同じ部屋に入居する人のために,そのままトイレに残しておいてあげるべきでしょう。

 わざわざ自分の車に積んで持っていく必要はありません。

 ではなぜトイレットペーパーを持っていくのかと言えば,引っ越し先のトイレにトイレットペーパーがないかもしれないからです。

 つまり引っ越し先は実家ではなく,どこか別のアパート(またはマンション)なのではないかと考えられるのです。

 「私」が「新しい暮らしの最初の段ボール箱と呼んでいる通り,引っ越し先に到着したら真っ先にこの段ボール箱を開けて,すぐに使えるようにしているわけです。

 引っ越し先に到着してすぐにトイレに入ったとして,トイレットペーパーがなかったら困るわけですし,トイレにはタオルも必要でしょう。

 とりあえず食事は外で済ませることができたとしても,新しい部屋に到着したらお茶ぐらい飲みたいでしょう。

 お茶を飲む前に,ホコリをかぶっているところや汚れが気になるところがあれば,軽く拭き掃除ぐらいはしたいでしょう。

 「さっき仕舞った食器の他に、タオルと、新しい雑巾と、トイレットペーパーが一巻」というのは,まさに何もないアパートに引っ越し業者が運び込んだ段ボール箱が積み上がっていて,荷ほどきをするには時間がかかるので,とりあえず必要なものだけ手元に準備しておくとしたら…という条件を満たすアイテムなのです。

 もちろん,そうではないという可能性も考えられます。

 たとえば,前の記事へのコメントごくろう君「現在ある部屋に最低限残すべき機能を最後まで残した」という可能性を指摘しています。

 ホルダーにあるトイレットペーパーすら持ち去るというのはかなりケチくさいという気もしますが,誠さんとの思い出がつまったこの部屋の私物は全部持って行きたいという感情からかもしれず,“あり得ないとは言い切れない”話です。

 引っ越し業者が荷物を運び去った後にトイレを使う可能性がある以上,ホルダーにはトイレットペーパーが残されていたでしょうし,それを最後の最後までとっておくというのは理にかなった話です。

 …と,ここまで考えたところで,「ん?」となるわけです。

 だとすれば,お茶を飲みながらババロアを食べた後にだって,トイレに行く可能性はあるはずで,どうして既にトイレットペーパーを取り外して段ボール箱に入れてしまったのだろう?という疑問がわくわけです。

 つまりトイレのホルダーには,まだトイレットペーパーがあるのではないでしょうか。

 そして,そのトイレットペーパーとは別に,おそらく新品のトイレットペーパーが,「新しい暮らしの最初の一巻」として,早い段階で段ボール箱に入れられていたのではないでしょうか。

 トイレットペーパー問題,皆さんはどう考えますか。

新しい暮らしの必須アイテム=カーテン

 段ボールの中身で,もう一つ注目しておきたいアイテムは,カーテンです。

 「新しい暮らしの最初の段ボール」が誕生する瞬間は,次のように描かれています。
「カーテンはどうする?」
「あ。こっちの段ボールに入れて」
 掃除機でざっと埃を吸って、ベランダでぱたぱたやってからたたんで、みちかちゃんが新しく組み立てた段ボールに入れた。
 (※注:引用は文庫版によるものです。

 みちかちゃんは,カーテンを入れるための段ボールをわざわざ新しく作っています。

 この後も荷造りの作業はしばらく続きます。

 三重の話をしながら2人は作業を続け,みちかちゃんが泣きそうになってしまったので「立ち上がって片付いたところだけ掃除機をかけた」という場面がありますが,その段階でもまだ荷造りは終わっていません。

 その間,新しく組み立てた段ボール箱にいろいろなものを入れていいはずなのに,最終的に入っていたのは,最後の最後に入れた食器の他には,「タオルと、新しい雑巾とトイレットペーパーが一巻」なのです。

 「現在ある部屋に最低限残すべき機能を最後まで残した」という可能性は,きわめて低いと考えられます。

 ちなみにカーテンは,窓から部屋の内部を見られないようにするために必要不可欠なアイテムです。

 私などでも窓からの視線は気になりますから,着替える時はカーテンを閉めますし,独身女性ならなおのこと,引っ越したばかりのアパートにカーテンがないというのは,とても不便なはずです。

 しかも,カーテンって,意外と高いんです。

 もちろん,実家に帰るのであれば,カーテンは不要です。

 あって困るものではありませんから,段ボール箱に入れること自体は不思議ではありませんが,それを特別の段ボール箱に選択的に入れておく必要はまったくなかったはずなのです。