川端康成の「日向」を読む(その3)―テクスト論から作家・作品論へ
テクストと作家・作品
「日向」という掌編小説を読むときに,署名に「川端康成」という作家の名前が記されていることを考慮に入れず,モデル問題に話を広げずに読んだのが,「解決編〔テクスト論ヴァージョン〕」でした。
なぜわざわざそんなことをしたのかというと,作家の名前を手がかりにモデルの話をしてしまうと,伝記的な出来事を小説表現にあてはめるだけになってしまってつまらなくなってしまうからです。
「じつは『日向』の娘にはモデルがいて,海辺の宿というのは●×県※☆市の▽■旅館で…」みたいなことで片づけられてしまうと,興ざめだからです。
作家の問題を持ち込まずに読解を進める「テクスト論」が文学研究の世界で流行したのは,基本的にはこういう“興ざめ”を嫌ってのことなのでしょう。
「テクスト」とか「作品」とかと言われてもわかりにくいかもしれないので,大ざっぱに整理しておくと,ここでは「作家が作ったもの」という意味合いがあるものとして小説を扱う場合に「作品」と呼び,作家の問題を考慮せずに「読者が読むもの」という意味合いで小説を扱う場合に「テクスト」という言葉を使っています。
厳密に考えるとかなり乱暴な整理なのですが,とりあえずは,川端康成の意図というものを想定して正しい読み方があることを前提にする考え方と,作家の意図や正しい読み方というものを前提としない考え方を区別するための便宜的なものと考えて下さい。
「二人はどのような関係でしょう?」という質問をされて,うんうんうなりながらさんざん考えさせられたあげくに,「じつはこの小説は川端康成が初恋の女性と…」なんていう話を教師がして,それが「正解」だなどと言われたらどうでしょう。
私が高校生なら,きっと暴動を起こすに違いありません。
言い方をかえれば,もしも「日向」を素材にした入学試験で「じつは初恋の人が…」という読みが「正解」だということになったら,国語は作家の伝記を覚えるだけの暗記科目になってしまいかねないということです。
さんざん考えさせたあげくに,「じつは…」という形で作家の伝記を持ち込んで小説の解釈を片づけてしまうやり方は,表現に即して一生懸命に読解をしようとする人間の気持ちをいちじるしく萎えさせます。
かつて「テクスト論」(“テクスト”を読むという立場の研究)を流行させる原動力となったのは,中高生時代に「じつは…」という作家論・作品論的な読解指導でいくたびも気持ちを萎えさせられ,やるかたのない憤懣をため続けてきた人たちの恨み辛み(ルサンチマン)だったのではないかという気がします。
「先生,ずるいですよぉ~。いきなり作家の問題を持ち出して話を片付けるのはやめて下さい!本文そのものの読みで勝負しようじゃありませんか。」
先行世代の研究者に対するテクスト論者の主張は,教師に対する生徒の異議申し立てと同じです。
そして,作家の問題を排除して読解で勝負するという点において,「テクスト論」と入試問題は同じなのです。
いきなり作家の問題を持ち込むと“興ざめ”になりがちですが,小説表現に即してあれこれと考えた後でなら,むしろ面白みが増すからです。
小説の読みというのは,どこかに絶対的なマニュアルがあって,その方法で読めば何でもすっきりと読み解けるというようなものではなく,手を変え品を変え,何度も読み直していくことで,見え方が変わり,そういう変化そのものを楽しむことが読むということの醍醐味だと考えます。
言葉が使い捨てられていく風潮が増す世の中だからこそ,100年近く前に書かれた「日向」のようなごく短い小説を,何度も何度も読みかえし,読み返すことの愉楽を味わいたいのです。
こういう繰り返しの読みに堪えうる文章を,「文学」と呼ぶのではないでしょうか。
さて,私は川端康成の研究家ではありませんので,「日向」の作家論・作品論的な読み方に関しては,『掌の小説』研究の第一人者である森晴雄さんの著作を参照しながら話を進めてみます。
森晴雄さんは,川端康成の『掌の小説』全編を一つ残らず論じ尽くすという偉業に挑戦中で,龍書房から『掌の小説』論シリーズをとしてこれまでに4冊の研究書を上梓しています。
(いずれも入手しにくく,アフィリエイトを貼ることができたのは1冊だけです。)
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最新刊の『「掌の小説」論―「日向」その他』(2007)に収められている「日向」論を参照しながら,モデル問題を確認し,私見を付け加えて「解決編〔作家論・作品論ヴァージョン〕」とさせてもらいます。