黒板のある風景―現代文学を可能にする舞台(1)
東京12チャンネル(現・テレビ東京)の「独占!男の時間」が大晦日に特番を組んだり,日本テレビが人気絶頂期の萩本欽一を起用して「紅白歌合戦をぶっ飛ばせ!」という番組を企画したりしていたのも,紅白が「大晦日の鉄板番組」として不動の地位を築いていたからこそのことでした。
お化け番組あったればこそ,きわ物バラエティーが一種のカウンター・カルチャーとして機能していたわけです。
ところが最近の「絶対に笑ってはいけないシリーズ」みたいなものは,どうもいけません。
実家にそろった家族が,お尻を叩かれるダウンタウンの姿にバカ笑いしているうちに,いつの間にやら午前零時をやり過ごしてしまうという,なんとも味気ない“行く年来る年”がここ数年くり返されてきました。
それもこれも,紅白が紅白として存在できなくなったせいです。
和室で「絶対に笑ってはいけないスパイ24時」を見ている家族を尻目に,途中から老母のいるリビングに席を移して別のテレビの前に陣どったのです。
ところが,最初に聴くことになったのは,HYの「時をこえ」…???
見たこともない歌手と,聴いたことのないヒット曲。。。
まるで月が二つあるパラレル・ワールドに迷い込んでしまったような不思議な気分でした。
その後もいろいろな歌手が登場して,それぞれに魅力的な歌が流れましたが,2010年の日本には家族が歌でいっしょに振り返ることができる1年の記憶はもうないのだなと痛感させられるひとときとなってしまいました。
最後の文士とも言われた高見順は小説家としてデビューしているので,詩を書き始めた当初はあまり評判がよくなかったそうです。
ときに酷評されたこともあったとか。
それでも,食道ガンに冒された最晩年の詩を収めた『死の淵より』に収録された「黒板」や「青春の健在」などを読むと,鮮やかな印象が心に残り,“ことばの力”というものを実感させられます。
詩人の世界でいかに認められるかということばかりに腐心して作られた独りよがりな現代詩をうんうん唸りながら読むくらいなら,末期の眼が見すえた世界を平易に語った高見順の詩を読んだ方がずっと心豊かな時間を過ごすことができます。
人生を去ろうとする高見順が,自分のあり得べき死にざまを語るために使うのは,次のようなことばです。
私の好きだった若い英語教師が 黒板消しでチョークの字を きれいに消して リーダーを小脇に 午後の陽を肩さきに受けて じゃ諸君と教室を出て行った ちょうどあのように 私も人生を去りたい病室の窓の白いカーテンから午後の陽射しが入ってくる様子を見ていて「教室のようだ」と感じた高見順が,「中学生の時分」を思い出しながら自らの人生の幕引きをイメージするという詩です。
なぜこの詩が私に心豊かな時間をもたらすのかと考えると,カーテンから陽射しが入ってくる“教室”という空間や,黒板を消すときの手ごたえやチョークの質感などの記憶を喚起する“黒板”という物体が,とても重要な役割を果たしていることに気づきます。
「黒板のある風景」の中で体験した数多くの出来事の記憶が,1960年代に没した高見順と,1960年代に生まれた私とを結びつけるのです。
家族そろって同じドラマや歌番組を観る空間だった“お茶の間”が消え去ってしまい,紅白歌合戦という年中行事が成立し得なくなりつつある現代,“日本”という国民国家の一員として,周囲の人びとと同じ世界を生きているという実感を支えてくれるのが“学校空間”であると言えるのかもしれません。
電子黒板が教室の風景を変え,インターネット通信教育が学校空間を無用の長物にしない限りは…。
そんなことを考えていたら,アジアカップの決勝戦が深夜としては驚異的な平均視聴率33.1%(瞬間最高視聴率37.5%)を記録したのも,多くの人びとと共有しうる体験が見い出しがたいという現実に対する不安感の裏返しではないかと思えてきました。
そんな仮説が成り立つのであれば,パラレル・ワールドを描いた村上春樹の『1Q84』に描かれた世界を,ひとまとまりの世界へと修復していくための結節点となるのが,青豆と天吾が教室という空間で体験した出来事であったというのも,偶然ではないということになります。
電車が川崎駅にとまる さわやかな朝の光のふりそそぐホームに 電車からどっと客が降りる 十月の 朝のラッシュアワー死の床にある高見順がしぼり出した言葉だということからくる感慨とともに,「電車のある風景」が描かれているということがこの詩の魅力を生み出しています。
おそらく「電車のある風景」というのもまた,「黒板のある風景」と同じように,多くの人びとにとって,周囲の人びとと同じ世界を生きているという実感を支えてくれるものであると言えるからです。
ついでに与太を飛ばしてしまえば,鉄道ファンがすそ野を広げ,「乗り鉄」「撮り鉄」「音鉄」「車両鉄」「鉄っちゃん」「鉄子」「ママ鉄」「子鉄」などと多様化しているのも,もしかすると,多くの人びとと共有しうる体験が見い出しがたくなっているという現実に対する不安感の反映かもしれません。
それでは結論です!
学校と鉄道は,現代文学を可能にする舞台としてますます重要な役割を果たすことになるであろう。
これ,ホント?