被災地を見るということ―震災記(10)

ボランティア活動の意味
40名の高校生を連れて,6月5日から8日まで,3泊4日の日程で岩手県に行って来ました。
バスで現地に入ったので初日と最終日は移動日で,実際に活動をできたのは2日間だけです。
そのうちの1日は,かつて女優の和泉雅子さんが北極点に行ったときにサポート隊の中心メンバーの1人だった菅原省司さんのご自宅前で,津波の被害を受けた大量の蔵書の泥やカビを取り払い,天日にさらして分類整理する作業と,側溝にたまった汚泥を除去する作業をしました。
菅原さんの蔵書を整理する作業では,本に向き合う時間よりもむしろ菅原さんと話をする時間の方が長かったかもしれません。
でも,72歳になるという菅原さんにとって,専門の雪氷学のことや北極圏のことを高校生に語る時間が持てたということ自体が,被災した現実の中から立ち上がる力につながっていくのだろうなと感じられました。
高校生たちが町を歩きながら,道ゆく地元の人びとと元気に挨拶をかわしている姿を見たときも,実際の作業で何をするかということはもちろん大切だけれど,被災地のために若者たちがやって来ているという事実が,それだけで支援としての機能を持っているに違いないと確信できました。
高校生たちはご夫妻のことをまったく知らない様子でしたが,私はNHKのドキュメンタリー番組で奥様の妙子さんとともに信じられない高さの絶壁に挑む峻烈なクライミングの様子を見ていたので,言葉をかわし,ともにボランティア活動ができたことに,一人でかなり興奮していました。
汚泥除去をした後には,津波の圧力で折れてしまった竹や流れ着いた木材を廃棄するために小さく切り刻む作業をしていたのですが,うまくノコギリを引くことができない高校生たちを尻目に,凍傷で両手の指を喪失しているはずの山野井妙子さんが見事な音を立ててノコギリを引いているのに気づいたときは,心底おどろきました。
おふたりと一緒だったことで,今回のボランティアは,よりいっそう忘れがたい体験になりました。
被災地を見るということ
「若い人たちが来るのなら,狭いエリアでボランティア活動をするだけではもったいない。ぜひ被災地を見て下さい。」という宮古ボランティアセンターのスタッフの方のアドバイスを受け,2チームに分かれた私たちは,1日をボランティア活動に,1日を被災地の実踏にあてることにしました。
2日目の朝,被災地復興事業者の宿泊施設として,仮設住宅の建築に従事する労働者をたくさん受け入れているホテル龍泉洞愛山を出発して1時間弱,田老地区に差しかかると,大きな堤防が崩れ,家々が流された被災地の現実に初めて遭遇することになりました。
最初にバスを降りたところは陸中山田駅だったのですが,駅としての機能を失い,復興から取り残されたような場所に多くの人びとの生活の証が“瓦礫”となって流れついていて,見ているだけで切なくなってきました。
もはや乗降客のないはずの駅前のロータリーには“客待ち”のタクシーが停まっていて,焼け焦げたベンチには老婆がひとり,誰を待っているのか,言葉をかけるのもはばかられるような風情で,文字通り呆然と座っていました。

「ぜひ見て下さい。」と言われてバスに乗ったわけですが,実際に被災地を訪れて感じたことは,「見る」ということのむずかしさです。
庭の手入れで草刈りや除草などの作業をした侍従が「雑草」という言葉を使ったときに,昭和天皇が「雑草という草はない」と諭した話は有名です。
天皇「どうして草を刈ったのか?」
侍従「雑草が生い茂ってまいりましたので…」
天皇「雑草という草はない。どんな植物にもみな名前があって,それぞれに生きている。」
高校生のころ,美術の授業で草むらを描いたときに緑色で適当に色を塗って済ませたように,「雑草」という言葉を与えてしまった瞬間に一つ一つの植物の差異は姿を消し,私たちは混沌とした緑のかたまりとしてしか植物を認識できなくなってしまいます。
昭和天皇にたしなめられた侍従も,それぞれに個別的な生を営んでいる植物一つ一つの姿を認識できずに,あたり一面に生い茂る緑のかたまりを十把一絡げに「雑草」と呼んでしまったわけです。
三陸海岸を南下するバスは,山沿いの道を走って峠を越えるたびに,海岸沿いの平坦地に広がる荒涼とした被災地の中を走り抜けることになります。
しかしバスに乗っている私たちは,はじめて訪れる場所であるにも関わらず,次第に既視感のなかに埋没していきます。
目の前に広がる現実を「テレビで見たのと同じだ。」と感じ始め,「被災地」とか「瓦礫(がれき)」というような大づかみな言葉の中でしか了解することが出来なくなっていくのです。

「雑草」という言葉で現実を見てしまうと個別的な植物の生を認識することができなくなってしまうのと同じように,「被災地」や「瓦礫」という言葉を与えて現実を見ているうちに,それぞれの集落の,それぞれの家々の差異が見えなくなり,がれきの一つ一つの背後にある人生や生活の痕跡を感じ取ることが難しくなっていくわけです。

瓦礫ひとつひとつの背後にどのような現実が横たわっているのかを丁寧に想像しながら被災地を「見る」というのは,きわめて過酷な営為でしょうから,「瓦礫」という言葉で十把一絡げに認識して済ませたり,「テレビで見たのと同じ」と見なして五感の働きを遮断してしまったりするのは,みずからの精神の平静を保つための防衛機制みたいなものなのかもしれません。
でも,「テレビで見たのと同じだ」と思った瞬間に,テレビで見たときに感じたこと以上のことを感じなくなってしまいます。
これはとても不遜なことであり,恐ろしいことでもあります。
そんな風に考えた私は,陸前高田から宮古に戻るために三陸海岸を北上するバスの中で,「テレビで見たのと同じだ。」という既視感から自分の意識を引きはがそうと,目に見えるモノの一つ一つに懸命に目を凝らしていました。
水田の広がる風景
津波の被害を受けた海岸沿いの平坦地を過ぎて山間の道に入ると,まったく何ごともなかったかのような美しい風景が広がっています。
空の青,雲の白,山の緑。
まばゆいばかりの自然の美しさです。
それから,山間の集落には,わずかな平坦地を利用して作られた水田に,田植えをしたばかりの苗がきれいな行列を作っています。

長年にわたって人が手入れをし続けてきた景観の美しさというものを感じさせる風景でした。
そして,このような美しい風景とは全く対照的な光景の数々が,いまだに脳裏を去来し続けています。
photograph by NJ