BUNGAKU@モダン日本_archives(旧・Yahoo!ブログ)

2005年2月18日〜2019年12月15日まで存在したYahoo!ブログのデータを移行しました。

リーダー不在の日本社会―震災記(番外編)

 東日本大震災のあった昨年暮れに,慶応大学三田キャンパスで行われた「リーダー力をどう育てるか」というテーマの会合に参加しました。灘中学高等学校教頭の倉石寛氏(現在は立命館大学教授)を座長として続けられてきた情報交換&勉強の会です。

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 日本では政界や実業界などで信じられないような不祥事が何度も起こり,そのたびに“リーダーたち”が醜態をさらしてきました。

 震災のときにも,劣弱なリーダーしかもてない日本社会の迷走ぶりがマスメディアやウェブでため息混じりに語られました。

 時代が求める新しいリーダー力を育てるために必要なことは,果たして何なのでしょうか。

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 学校教育という場でリーダーシップを発揮できる人材を育てていくために何がなされているかと考えると,おそらく多くの人が思い浮かべるのは,学校行事ではないでしょうか。

 たしかに文化祭や体育祭などの学校行事は,企画や運営を含めて生徒が“主体的”に関わっていく場合が多いですから,実行委員会などを組織して準備を進めていく生徒たちの充実感や満足感はとても大きなものになります。

 灘中学・高校のようなスーパーエリート養成学校でも,基本的な事情は同じなのだろうと思われます。

 私自身も神奈川県内の伝統校で文化祭や体育祭を体験しましたから,学校行事の素晴らしさを否定するつもりはありません。

 ただ,今の日本社会に欠けているリーダー力を育てるためには,従来型の学校行事ではもう限界に来ているということも確かだと思うのです。

 文化祭や体育祭のようなイベントは,基本的に「先輩―後輩」という垂直的な関係性を基盤にしています。

 したがって,リーダーとしての上級生の意志が集団全体に浸透しやすい構造を持っています。

 もちろん,生徒会や部活動などでも同じことです。

 しかも,素晴らしい学校行事を実施している名門校であればあるほど,あらゆる面でマニュアル化が進み,先輩から後輩へと受け継がれた方法論に基づいて,ソツなく行事を実施することが可能な体制が作られています。

 一昔前までなら明文化されていない“しきたり”が,近年はデータとして保存されている“マニュアル”が,その学年の実行委員長を支えてくれます。

 前例に従っていれば,半ば成功は約束されているわけです。

 毎年選ばれる“リーダー”がやることと言えば,基本的には“しきたり”や“マニュアル”に基づいて大枠を引きつぎ,前例を踏襲しながら細部に手を加えて時代に合わせたヴァージョンアップを試みるというぐらいが関の山です。

 これは官僚機構とか大企業のあり方にそっくりです。

 こうした方法は,安定した社会の中で成功を重ねて来た組織においては,高い確率で成功体験を引き出すことができます。

 したがって,文化祭や体育祭などの学校行事の成功体験を経た人材が,そこで学んだスキルを応用しながら社会で活躍し,日本の発展に寄与することを可能にしていました。

 しかし従来型の学校行事的な体験だけでは,激変する社会が求めている新しい時代に合わせたリーダー力を養うことはおそらくできません。

 同質な人間が集まった集団ではなく、異質な他者が数多く含まれた多様性を持った集団の中でどのようにリーダー力を発揮するか、「先輩―後輩」のような垂直的な関係があらかじめ用意されていないフラットな場においてどのようにリーダー力を創出するかということを考えたときに、もっと別の形の学びの場が必要であることは明らかであると思います。

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 東京から発せられる「原発事故収束」という言葉が、福島第一原発において“ずさん”で過酷な作業を強いられている作業員たちの士気をどれほど低下させるかということに対してまともな想像力を全く持つことができなかった日本のリーダーたちの姿を見るにつけ,従来型のエリート教育,リーダーシップ教育の限界を感じます。

 現在の日本のリーダーたちは,おそらくかつて母校において高い学力を身につけつつ“自主的”で“生徒主体”の特別活動を体験しながらリーダーシップを磨いてきたはずの人材であるはずだからです。

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 さてそれでは,日本社会はいったいどのような形で次世代のリーダーシップを育めばよいのでしょうか。