官邸前デモに参加して―震災記(14)
そして,タイムラインに表示されるツイートを眺めながら,千代田線の国会議事堂前駅にたどり着きました。
すでに午後7時を過ぎていましたが,この日は改札を抜けて3番出口からスムーズに路上に出ることができました。
そして,路上に人があふれる官邸前デモのただなかに自分の身体を置いてみたときに感じたのは,デモをヒートアップさせようとする煽情的な言動を尻目に,従来のデモとは異なる静謐な空気を保っている参加者たちの立ち居振る舞いでした。
行き過ぎる人が自分の気持ちのままにつぶやくように「再稼働反対」のシュプレヒコールを口にしています。
もちろん,デモの全体像を見通せるような場所にいたわけではありませんし,路上にいた時間も限られています。
デモにはいろいろな局面がありますから,自分が見た光景だけを根拠にデモの性質を語ってはいけないわけですが,たまたま読んだ翌日の『信濃毎日新聞』(夕刊)に掲載されていたレポートにも,安保闘争を頂点とするような従来型のデモには見られなかったような新しいデモのありようが示されていました。
そこには,昨夏、反原発パレードに参加したが運動色が強く「はやらない」と思ったとか,「40年前の学生運動のようになっちゃ、だめでしょ。あんまり熱いとみんな引いちゃう」とか,「大人の社会科見学ですよ」などと言った若い参加者たちのクールな声が伝えられていました。
翌週のデモでの出来事ですが,ヒートアップして午後8時を過ぎても解散しようとしない参加者たちに対して主催者のメンバー1人がしたスピーチ(官邸前・扇動者による暴徒化を食い止めたスピーチ)にも,従来型のデモとは異なる新しさを感じました。
ところが,当時上海にいた友人によると,中国の国内メディアは反日デモのことをまったく伝えず,中国の人民は「盲目状態」にあったそうです。
その話を聞いた私は,「中国赴任中のNさんからのメール」という記事をアップし,数万規模のデモというのが十数億人という中国全土の人口から考えていかに小さな数字であるかということを,横浜国際競技場(現,日産スタジアム)で開催されていたミスチルのコンサートに集まった人びとのにぎわいを引き合いに出しながら書き記したのでした。
5万人とか10万人という数の人間のエネルギーは間近に見るとすごいものですが,日本全体から見ると風の前のチリみたいなもので,ミスチルのコンサートが行われていることなんかまったく気づかないまま,ふだん通りの生活をしている人がほとんどだったのだと思います。 中国の反日デモもきっと同じなのだろうなと思います。テレビに映るのはせいぜい数百人の群衆ですし,報道では数万単位の人々がデモに参加したとも言われていますが,12億だか13億だかという人数の前では,まさに“風の前のチリ”なのではないでしょうか。1億人以上が住んでいるこの国においても,人間の数の意味を正しく捉えるのは容易なことではありません。
とりわけ,国論を二分するような問題においては,数の意味をつねに相対化する必要があります。
長く圧政が続いていた新興国で初めて民主的な大統領選挙が行われた時などに,落選した候補を指示する陣営が「このような結果はとうてい受け入れられない。開票作業などで不正があったに違いない!」などと言って,抗議集会やデモを行うことがあります。
軽く数万人,場合によっては十数万人,複数の都市を合わせれば数十万人もの人びとが一斉に抗議の声をあげるわけで,集まった人びとは「こんなに支持者が多いのに,落選するのはおかしい」と感じて,ますます抗議活動をヒートアップさせます。
しかし,大統領選挙ですから,たとえば1千万人の有権者がいたとすれば,当選候補の支持者が600万人だとして,落選候補もそれぞれ100万単位の支持者を抱えているわけです。
「不正選挙だ!」と叫んで動員をかければ,万単位の人が集まるのは当然のことです。
万単位の人間が集まったという事実だけで,選挙結果をくつがえしてしまえば,民主主義国家ではなくなってしまいます。
万単位の人間が集まったという事実を前に,「みんな(=日本中の人が)自分と同じ思いだ」と思ってしまってはいけないのです。
ですから,「主催者発表、10万人!すごい!」とか「身動きできない。何万人いるんだろう。まだまだ増えている。」などのように数の多さを誇示し,参加者を鼓舞するようなツィートを見るたびに,違和感を覚えざるを得ませんでした。
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誤解を恐れずに言えば,デモというのも広義の“暴力”です。
官邸前デモを“革命”と称するセンスは,政治を暴力で変えることを肯定する感覚と地続きです。
デモや集会をすることには十分に意味がありますが,人が集まるという事実“だけ”で政治を動かせる,動かせるはずだ,動かすべきだ…と考えるのは間違いです。
民主主義国家において脱原発を実現するには,デモだけではダメなのです。
どうしても少し時間はかかってしまうのですが,デモ以外の手法をも駆使しながら脱原発を現実化する知恵が求められているのではないでしょうか。