小説世界における固有名―「ノルウェイの森」への注釈の試み
ブログの記事を元にした文章を写真のような研究誌に発表しました。こういう形で論文を書いたのは初めての経験です。 お堅い論文なので,全編載せずに最初と最後だけをアップします。 本当は昔の論文のさわりを載せようと思ったのですが,「登録できない文字列が含まれています」ということでアップできませんでした。どの「文字列」がダメなのかも,結局わからずじまい。 …そんなに変なことばは使ってないんだけどなぁ(-_-;)。。。
一、固有名と《通》の文学
十二の歳に直子はこの土地にやってきた。一九六一年、西暦でいうとそういうことになる。リッキー・ネルソンが「ハロー・メリー・ルー」を唄った年だ。その当時この平和な緑の谷間には人の目を引くものなど何ひとつ存在しなかった。(中略)
家の設計者でもあった最初の住人は年老いた洋画家だったが、彼は直子が越してくる前の冬、肺をこじらせて死んだ。一九六○年、ボビー・ヴィーが「ラバー・ボール」を唄った年だ。いやに雨が多い冬だった。
家の設計者でもあった最初の住人は年老いた洋画家だったが、彼は直子が越してくる前の冬、肺をこじらせて死んだ。一九六○年、ボビー・ヴィーが「ラバー・ボール」を唄った年だ。いやに雨が多い冬だった。
むろん村上春樹は「一九六○年」が何であるかをよく知っているのに、無知のふりをする。それがイロニーという語の原初的な意味である。そして、忘れてはならない重要なものを消去して、リッキー・ネルソンの「ハロー・メリー・ルー」、ボビー・ヴィーの「ラバー・ボール」といった「忘れ得ぬ」風景を強調する。こうした固有名が濫用されるのは、本当は固有名を拒否するためである。数字の濫用はそれと同じ意図を持っている。
柄谷行人は、「1973年のピンボール」というタイトルが、大江健三郎の「万延元年のフットボール」のパロディになっていると言う。一九六○(昭和35)年とは、日本中が日米安保問題に揺れ動いた、敗戦後の日本の歩みを考える上で重要な年である。そして「万延元年」とはすなわち、一八六○年のことである。大江健三郎は、一八六○年の百姓一揆を百年後の安保闘争に結びつけることで、「万延元年のフットボール」という小説を生みだしたわけだ。したがって「万延元年のフットボール」は、《日米関係百年の物語》である。そういう特権性を持った年としての一九六○年が、村上春樹の小説の中で「ボビー・ヴィーが『ラバー・ボール』を唄った年」と書かれていることに、柄谷行人は苛立っているようにも見える。一九六○年がどういう年であるかよく知っているのに「無知のふり」をしているのは「歴史意識の空無化」であり、「ハロー・メリー・ルー」や「ラバー・ボール」というような固有名が濫用されるのは「本当は固有名を拒否するためである」というのが、柄谷行人の主張である。
ほんとうにそうなのか。
「ハロー・メリー・ルー」や「ラバー・ボール」は固有名なのだから、少なくとも「拒否」ということばは不穏当である。もちろん柄谷行人が言っているのは、リッキー・ネルソンやボビー・ヴィーのような了解不能な固有名を濫用することが、固有名の意味を空洞化することにつながるということである。しかしそれは、たんに柄谷行人が知らないというだけの話ではあるまいか。あるいは「無知のふり」をしているだけだとでも言うのだろうか。
よく読むと、どうやら「一般性に解消されてしまうような〈固有名〉を使うことで、一般性に解消されることを拒む《固有名》を排除している」と指摘しているらしいことがわかる。つまり、「固有名」と呼ばれているものには、一般性に解消されてしまう〈固有名〉と、一般性に解消されることを拒む《固有名》の二種類があるということのだ。しかしこういうことを言いたいのなら、リッキー・ネルソンやボビー・ヴィーというようなことばを「固有名」と呼ばない方がいい。まぎらわしいだけだ。
だいいち、村上春樹の小説にリッキー・ネルソンやボビー・ヴィーのような固有名が出てくるのは、小説と読者の間に特定の時空と結びついた濃密な関係を作り上げるための仕掛けである。それは、一般性に解消されることを拒みつつ、同時に一般性にもすり寄ろうする読者の欲望を満たすための装置である。1973年のピンボール」における固有名の問題を考えるのなら、個性や自分らしさを探し求めている読者の欲望を満たす《仕掛け》になっているという側面を問題にすべきだろう。柄谷行人は、村上春樹の小説を、自分の問題構成にあまりにも強引にあてはめ過ぎている。
たとえば、P―MODELの「美術館であった人だろ」という固有名が、ある特定の時空をともにした者の間に、愉楽に満ちた了解を成立させることをわたしは知っている。インベーダーゲームが日本中を席巻し、ウォークマンが登場した一九七○年代の末に、特定の嗜好を共有した若者が魅了された特別な世界を体験したことがあるからだ。世代を超えて了解されるような一般性には解消されないが、かといって「一般性に解消されることを拒む単独性」を示すものでもない。《個性的》なDCブランドに狂奔した一九八○年代の若者と同様の、差別化された内輪空間への欲望がここにはある。
別な例をあげれば、「僕は泣いちっち」とか「霧笛が俺を呼んでいる」、あるいは「受験生ブルース」とか「天使の誘惑」などという、今となっては知る人の少ない固有名は、ある種類の人々の気持ちを特定の時空に引き戻すような喚起力を持っている。「ハロー・メリー・ルー」や「ラバーボール」ということばも、おそらく一九六○年代初頭にアメリカンポップスを聴いていた人々にとっては、何か深いところで感情を揺さぶるような濃密な関係性を、小説と自分との間に生み出す仕掛けになっているはずだ。反米闘争としての安保闘争に吸引されていく者を横目で見つつ、FENから流れるアメリカンポップスを聞きながら受験勉強をしたり、カーラジオで音楽を流しながら女の子とドライブをしたりしていた若者もいたはずだからである。安保だけが歴史ではない。
ちなみに、「僕は泣いちっち」と「霧笛が俺を呼んでいる」は一九六○年(昭和35)のヒット曲、「受験生ブルース」と「天使の誘惑」は一九六八年(昭和43)のヒット曲である。
「文壇交友録小説」としての私小説が一般読者を排除した場所で作家同士の濃密な関係を築いたように、村上春樹の小説に出てくる固有名は、ある特定の読者に対する「あなたにはわかるよね」という呼びかけを内在させている。言いかえれば、読む行為を通じて濃密な関係性を生成させる装置である。選ばれた少数の者の間に成立する濃厚な了解のありようを《通》ということばで表すとすれば、私小説も村上春樹の小説も《通》の文学なのである。
ほんとうにそうなのか。
「ハロー・メリー・ルー」や「ラバー・ボール」は固有名なのだから、少なくとも「拒否」ということばは不穏当である。もちろん柄谷行人が言っているのは、リッキー・ネルソンやボビー・ヴィーのような了解不能な固有名を濫用することが、固有名の意味を空洞化することにつながるということである。しかしそれは、たんに柄谷行人が知らないというだけの話ではあるまいか。あるいは「無知のふり」をしているだけだとでも言うのだろうか。
よく読むと、どうやら「一般性に解消されてしまうような〈固有名〉を使うことで、一般性に解消されることを拒む《固有名》を排除している」と指摘しているらしいことがわかる。つまり、「固有名」と呼ばれているものには、一般性に解消されてしまう〈固有名〉と、一般性に解消されることを拒む《固有名》の二種類があるということのだ。しかしこういうことを言いたいのなら、リッキー・ネルソンやボビー・ヴィーというようなことばを「固有名」と呼ばない方がいい。まぎらわしいだけだ。
だいいち、村上春樹の小説にリッキー・ネルソンやボビー・ヴィーのような固有名が出てくるのは、小説と読者の間に特定の時空と結びついた濃密な関係を作り上げるための仕掛けである。それは、一般性に解消されることを拒みつつ、同時に一般性にもすり寄ろうする読者の欲望を満たすための装置である。1973年のピンボール」における固有名の問題を考えるのなら、個性や自分らしさを探し求めている読者の欲望を満たす《仕掛け》になっているという側面を問題にすべきだろう。柄谷行人は、村上春樹の小説を、自分の問題構成にあまりにも強引にあてはめ過ぎている。
たとえば、P―MODELの「美術館であった人だろ」という固有名が、ある特定の時空をともにした者の間に、愉楽に満ちた了解を成立させることをわたしは知っている。インベーダーゲームが日本中を席巻し、ウォークマンが登場した一九七○年代の末に、特定の嗜好を共有した若者が魅了された特別な世界を体験したことがあるからだ。世代を超えて了解されるような一般性には解消されないが、かといって「一般性に解消されることを拒む単独性」を示すものでもない。《個性的》なDCブランドに狂奔した一九八○年代の若者と同様の、差別化された内輪空間への欲望がここにはある。
別な例をあげれば、「僕は泣いちっち」とか「霧笛が俺を呼んでいる」、あるいは「受験生ブルース」とか「天使の誘惑」などという、今となっては知る人の少ない固有名は、ある種類の人々の気持ちを特定の時空に引き戻すような喚起力を持っている。「ハロー・メリー・ルー」や「ラバーボール」ということばも、おそらく一九六○年代初頭にアメリカンポップスを聴いていた人々にとっては、何か深いところで感情を揺さぶるような濃密な関係性を、小説と自分との間に生み出す仕掛けになっているはずだ。反米闘争としての安保闘争に吸引されていく者を横目で見つつ、FENから流れるアメリカンポップスを聞きながら受験勉強をしたり、カーラジオで音楽を流しながら女の子とドライブをしたりしていた若者もいたはずだからである。安保だけが歴史ではない。
ちなみに、「僕は泣いちっち」と「霧笛が俺を呼んでいる」は一九六○年(昭和35)のヒット曲、「受験生ブルース」と「天使の誘惑」は一九六八年(昭和43)のヒット曲である。
「文壇交友録小説」としての私小説が一般読者を排除した場所で作家同士の濃密な関係を築いたように、村上春樹の小説に出てくる固有名は、ある特定の読者に対する「あなたにはわかるよね」という呼びかけを内在させている。言いかえれば、読む行為を通じて濃密な関係性を生成させる装置である。選ばれた少数の者の間に成立する濃厚な了解のありようを《通》ということばで表すとすれば、私小説も村上春樹の小説も《通》の文学なのである。
四、おわりに
「ノルウェイの森」に使われている固有名のうち、ほんの一握りの部分を考察しただけでも注釈を加えるべき多くの問題が伏在していることがわかった。ブラームスやトーマス・マンのような固有名から、マイク・ニコルズやリッキー・ネルソンのような固有名まで、ある程度のオーダーの人々の間で了解しうるさまざまな固有名が、「ノルウェイの森」には氾濫している。文化的な知を共有しうる少数者であるという意識をくすぐりながら成立する《通》の文学としての側面が、「ノルウェイの森」というベストセラー小説の魅力の一面であることは、どうやら間違いのないところである。
※『現代文学史研究』第4集(2005年6月発行)より