BUNGAKU@モダン日本_archives(旧・Yahoo!ブログ)

2005年2月18日〜2019年12月15日まで存在したYahoo!ブログのデータを移行しました。

サバイバーズ・ギルトと映画「レ・ミゼラブル」

震災をめぐる罪障感とうしろめたさ

 「生き残りの罪障感」(サバイバーズ・ギルト)という言葉を知ったのは,野田正彰さん『戦争と罪責』(1998.8)を読んだ時でした。

 ページをめくってこの言葉が目に飛びこんできた時に,すぐに腑に落ちたのにはそれなりの背景があって,就職して間もない1980年代末に,アルフォンス・デーケンさんの講演を聴く機会に恵まれ,「グリーフケア」(=死別の哀しみを癒すこと)という考え方に触れていたこともその1つでした。

 両親ともに健在だった20代後半の私にとって,死別と言えば祖父母との死別に他ならなかったわけですが,そこには確かに曰わく言い難い罪障感がわだかまっていました。

 そのことは「死者といかに向き合うか」という文章に書いたことがあります。(初出『文学のこゝろとことば』1998.6)

 その後,筑摩書房のウェブサイトに連載した「定番教材の誕生」を書いているうちに,「生き残りの罪障感」だけでは片付かないものがあることに否応なく気づかされました。

 戦争の生き残りでもなく,大災害の生き残りでもなく,肉親に自殺されたわけでもない私の中にわだかまっている感情にあえて名前をつけるとすればそれは,「ぼんやりとしたうしろめたさ」とでも呼ぶべきものでした。

 連載を通して夏目漱石「こころ」森鴎外「舞姫」などの定番教材の誕生について考える中で,戦争から高度成長期を経て,そしてジャパン・アズ・NO.1のバブル経済へと至る敗戦後の日本の歩みの意味を自分なりに概括することになりました。

 これらのことは,自分なりの実感に根ざしたものだったとは言え,あくまでも「頭」で考察されたものでした。

 ところが,東日本大震災という想像を絶するような悲劇が起きてしまった時に私が感じたのは,あまりにも「胸」にじかに響いてくる,あまりにも典型的なサバイバーズ・ギルトでした。

 また,「ぼんやりとした…」などという形容句がそらぞらしくなってしまうほど明白なうしろめたさでした。

 被災地の死者を中心とする同心円を想定すれば,内側には罪障感が外側にはうしろめたさが,さまざまな偏差をはらみながら無彩色の不規則なグラデーションを織り成しています。

 震災によって「死者にいかに向き合うか」という課題が,新たな相貌で目の前に立ちふさがっています。

 震災関連のドキュメンタリーがテレビで放映されていることを知る時,「もういいよ」という気分に襲われることは否定できず,その一方でチャンネルを合わせてしまえば目を逸らすことができない自分がいることも確かです。

 人気メニューベスト10をすべて当てるまで帰ることができないというルールの中で,満腹をとっくに通り越しているにも関わらずバカ食いを続ける芸人の映像を垂れ流すテレビ番組。

 「絶対に笑ってはいけない」という掟のもと,笑ったらお尻をしばかれるというルールの中で,コスプレをしたまま24時間にわたって乱痴気騒ぎを繰り広げる芸人の映像を垂れ流すテレビ番組。

 生きていく勇気や元気をもらうことを欲している人がいます。

 この世の中にバカ笑いも必要です。

 しかし,震災直後には決して放映されることのなかったこうしたバラエティー番組が放映されているという現実を前に,私の胸の奥に何かが澱のように溜まっていくのを感じるのです。
 

映画「レ・ミゼラブル」に見たもの

 1ヵ月ほど前の日曜日,夫婦50割引を利用して話題の映画「レ・ミゼラブルを鑑賞しました。

 (ネタバレ注意!です)

 ネットで噂になっていた通り,終幕が近づくにつれて劇場のあちらこちらですすり泣きが聞こえてきて,暗闇に浮かぶ巨大な虚構空間の迫力と,最新鋭のサウンドシステムによって響きわたる圧倒的な歌の力に感銘を受けました。

 ただ,このところ涙腺がゆるんでいる私ですが,すすり泣くということにはなりませんでした。

 あまりにもあからさまに全共闘世代的な物語になっていることに,情よりも理が働いてしまったためです。

 「レ・ミゼラブル」の主人公は一般的にはジャン・バルジャンだと考えられていますが,サバイバーズ・ギルトという観点から映画版の「レ・ミゼラブル」を見ると,マリユスとコゼットが主人公だと言えます。

 ジャン・バルジャンの死に慟哭しながらも幸せをつかむ二人の姿は,ロマンチックラブの発露であり,シネコンやロードショー封切館で映画を見る観客はおそらくそこに自らの過去と現在を投影しています。

 マリユスは,バリケードの内側にいながらも革命に殉ずることなく生き残り,世俗的な幸福をつかむ転向者です。

 そして,父母を亡くし,ジャン・バルジャンに育てられたコゼットは,バリケードの外にいる傍観者(シンパ)です。

 映画では,多くの若者が革命を志して立ち上がりながら,最後は市民に見捨てられ,孤立無援の中で無惨に死んでいきました。

 エポニーヌもそうした死者の1人でした。

 村上春樹の小説で言えば,キズキや鼠,直子やハツミさんなどによって表象される死者たちと同じ場所にエボニーヌはいます。

 しかばねを踏み越え,サバイバーとして豊かな社会を享受していくことになる人間に対して,「ノルウェイの森」の緑は,次のような罵声を浴びせていました。
「そのとき思ったわ、私。こいつらみんなインチキだって。適当に偉そうな言葉ふりまわしていい気分になって、新入生の女の子を感心させて、スカートの中に手をつっこむことしか考えてないのよ、あの人たち。そして四年生になったら髪の毛短くして三菱商事だのTBSだのIBMだの富士銀行だのにさっさと就職して、マルクスなんて読んだこともないかわいい奥さんもらって子どもにいやみったらしい凝った名前つけるのよ。何が産学共同体粉砕よ。おかしくって涙が出て来るわよ。」 
 1980年代末に「ノルウェイの森」を手にした読者の多くは,じつはここで緑から罵声を浴びている“インチキ”な人びとの仲間です。

 ジャン・バルジャンによってバリケードの外に助け出されたマリユスと,マルクスなんて読んだこともないかわいい奥さん」たるコゼットです。

 そしてもちろん,ワタナベとの会話の中で発せられた緑の罵声は,天にツバするものに他なりません。

 緑自身も,ワタナベも,サバイバーとして豊かな日本社会を生きていく以上は,どう転んでも“インチキ”と無縁でいられるはずがないからです。

 にもかかわらず,いや,だからこそ読者は,2人の愛の成就をどこかで期待し,祝福しようと欲望しています。

 死にゆくジャン・バルジャンに涙しながら,マリユスとコゼットの2人が結ばれることを欲望するように。